こんにちは♡ナガです♡
あなたは、
「本当はいけないんだろうけど、なぜかやめられないんだよねえ…」
という物や事はありますか?

ワタシ、落ち着いた雰囲気ある喫茶店で何年も働いているのに、
声がすごくデカいのよね〜。しかもいっぱいしゃべっちゃうしさ〜。
なんちゅうか、店の雰囲気と合ってない…?
でも、この声量とおしゃべりはなかなかなおせなくてね〜。



そんなこと氣にしてたの!?
じゅんこちゃんのおもしろ明るいエネルギーは、
喫茶ナガタニにぴったりだと思うよ〜



そオ?うれC〜☆
上記のじゅんこちゃんの出してくれた例は、今回の趣旨とはちょっと異なりますが…笑
では
「本当はいけないんだろうけど、なぜかやめられないんだよねえ…」
という物や事とは…
たとえば
(食べ過ぎだと感じているのに)たくさん食べてしまう
( 〃 )甘いものばかり食べてしまう
( 〃 )激辛ばかり食べてしまう
(買い過ぎだと感じているのに)買い物ばかりしてしまう
(飲み過ぎだと 〃 )お酒ばかり飲んでしまう
(やり過ぎだと感じているのに)ゲームばかりしてしまう
( 〃 )仕事ばかりしてしまう
などなど、他にも挙げればきりがありません。



うおお…
なるほどネ
対象が何であれ、
過剰だと感じているにもかかわらずやめられないというのは、つらいですよね。
そこでひとつ、あなたに質問したいと思います。
「あなたはなぜ、過剰、依存状態だと感じるようになったのでしょう?」
過剰で依存的な状態だと感じたのは、誰でしょうか?
あなたはいつ、過剰である、どうも依存状態にあるようだ、と感じたのでしょうか。
自分の感覚で
「なんか、過剰な氣がする。しっくりこないな。」
と感じたのでしょうか?
それとも
他の人によくないと注意されたり、
基準値や平均値などを見て自分が世間の人と比べて好ましくない、過剰で依存的な状態にあてはまっていると認識したのでしょうか?
前者の場合は
前者の場合は自分の感覚で感じ取ったことです。
この場合は
過剰であるという違和感、つまり
エネルギーバランスの取り方が「今」の自分には適切ではないことに自分で氣づき、認識しているので
意識の使い方や行動を自分にしっくりくるように変えていくことで比較的すぐに過剰な状態から抜けていくことができます。
後者の場合は
後者の場合は他人や集合意識の価値観で自分を見た結果「よくない」「好ましくない」状態にあてはまっていたということです。
つまり、あなた以外の誰かがあなたの状態を過剰で依存的だと感じていることになります。
あなた自身の感覚では、過剰だとも依存だとも思っていなかった可能性もあります。
しかし、世間の人の価値観にひっぱられて、悪氣は無いのになんとなく良くないことをしているような後ろめたさを感じてしまったりします。



ちきゅうにいたら、エネルギーの波が激しくなるとき、あるわよね。
ま、ととちゃんには関係ないんだけどさ。
そーゆーときは、エネルギーバランスをとるために一見やりすぎに思えるようなことをするとちょうどよかったりするのよね。
世間の人と比べず、あなた自身がどう感じているかに意識を向けてみましょう。
あなたが「ちょうどいい」と感じていれば、今はそのおかげでバランスがとれているのかもしれません。
罪悪感は、手放しましょう
たとえば、あなたが激辛好きで、毎日のように激辛食品を食べているとしましょう。



わたしも、激辛好きです。
毎日ではないけど、たまに食べたりします♪



ひぇ〜よく食べられるわネェ…
周りにいる人たちから
「体に悪いよ」とか
「よくそんなの食べられるね」(↑まさにじゅんこちゃんが言っていますね…笑)とか
「ストレス発散するなら違う方法がいいよ」
などなど、色々言われるとします。
そう言われたら、なんだかよくないことをしているようで罪悪感が湧いてきたりしますよね。
その罪悪感を手放しましょう!
なぜなら、注意してくる人はたぶん激辛のおいしさや魅力がわからない人です。
むしろ激辛が苦手だからこそ、否定的な意見やアドバイスが出てくるのでしょう。
理解できないからこそ、否定的な感想が出るのです。
そう、
相手はあくまでも相手の感性や観念のフィルターを通した感想を言っているに過ぎないのです。
あなたと相手は感性が違うのです。
だから、否定的なことを言われても真に受ける必要はないのです。
ただの「感想」としてとらえましょう。
否定的なことばを真に受けて罪悪感を感じると、波動ががっくりと下がります。
そうなるとたのしさやおいしさは激減し、ほんとうに体に悪影響が出てしまうかもしれません。



え〜!そんなのイヤ〜!
あまりにももったいないことです!
「今」、味わい楽しみましょう♡



れっつエンジョイ〜♪
相手はあくまでも相手の感性や観念のフィルターを通した感想を言っているに過ぎないのです。
否定的なことばを真に受けて罪悪感を感じると、波動ががっくりと下がります。
罪悪感は手放して、味わい楽しみましょう♡
「とりあえず」習慣化してしまっていないか、見なおしてみましょう
次に、「とりあえず」選んでいないかに、意識を向けてみましょう。
激辛の例えは最後まで続きます笑



ハイハイ
例えば、ご飯を食べに行ったとします。
そこで、激辛メニューや辛さが選べる食べ物があったとします。
多分毎日のように激辛食品を食されている方は激辛や辛いメニューを注文される可能性が高いですよね。
そのとき注目してほしいのが、
このメニューの激辛、興味ある!食べてみたい!
と選んだか、
「とりあえず」激辛だから注文しておこう
と選んだかです。
つまり、
どういう動機で選んだかです。
興味があって氣になるから選んだ場合は何かピンとくるような、惹かれるような感覚があるから選んだということですね。
「とりあえず」選んだ場合は、無意識的に、条件反射的に機械的に選んでいることになります。
そこには、ときめきもワクワクもありません。
ただ、プログラム通りに選んでいるだけです。
その状態では、からだの声や自分の本当に望んでいることに氣づけません。
実は内臓が疲れていて、とてもじゃないけど激辛は負担が大きすぎるよ、と
からだのほうでは悲鳴をあげているかもしれないのに、
ただただ条件反射的に生きているとその感覚に氣づけないのです。
だから、氣づいてもらうために病気になるなど、からだの方から不都合なことをサインとして起こしてきたりするのです。
もし、とりあえず選んでしまっていた場合は
「今、自分が食べたいもの(惹かれるもの)はなにかな?」
と自分に問いかけてみてください。
たいせつなのは、
「自分が今ひかれているものはどれかな?」と
そのときの「今の意識」で選択することです。
考えたくないからレッテルを貼ってしまっていないか、意識を向けてみましょう
人は無意識的に自分に数えきれないほどのレッテルを貼っていたりします。
このレッテルこそ、一つ前の項目で書いた「とりあえず」無意識に反射的に選択する元になっているのです。
レッテルを見つけるヒントとなる注目ワードは、
「〇〇しなければいけない(〇〇でなければならない)」
です。
自分は「激辛好き」だから
→とりあえず(何も考えずに)辛さは激辛を選ぶ
→ストレスがたまったら激辛食品を食べる
(激辛食べて、ストレス発散しなきゃやってらんない
→激辛を食べるという条件でストレスを発散するというプログラム)



おおおおお…



以前の自分も、そんな感じの時あったな〜…



ふふ…
だから激辛の例ばかり書くのであろ〜
やってしまっていませんか?
もしかしたら、激辛が好きというより
「激辛好き」のレッテルを貼っておけば色々と考えなくていいから「激辛好き」でいるだけな可能性もありますよ。
見分け方は、
選んだ時や食べている時などにワクワクやよろこびを感じながら味わっているかです。
苦しみを感じながら「こんなに痛くて辛いけど…、完食してやる!(完食できたらスゴイ!)」といどむような感じだったり、何かへの怒りや鬱憤を晴らすかのように食べているのだったら、違うかもしれません。
(これ、かなりの人がやりがちだと思います…。)
戦いや苦しみの周波数を使っていたり、怒りや鬱憤を激辛の痛みの感覚によって解消しようとしているからです。



ん?
けっこうアブノーマルな状態では…?



ストレスは、痛みでは解消されないよ。
一瞬はスカッするかもしれないけど、
自分が痛みを感じることでストレス発散するというのは、
結局自分自身をますます傷つけていることになるからね…。



あっ、
激辛がおいしくてスッキリするのは事実!
たしかにビリビリしてかなり刺激的なんだけど、
汗もいっぱいかいて、氣持ちいいよ〜☆
げんきになる☆



やっぱりわからん……
レッテルを剥がせるのは、自分自身だけです。
レッテルを剥がせば剥がすほど「今」の自分が望んでいることがわかってきます。
意識が澄んでくるからです。
ストレス発散の手段としてではなく、その行為や物そのものを味わっていますか
他人や世間との比較
罪悪感
とりあえず
レッテル
などの観点チェックを経てここまできました。
さて、どうでしょうか。
自分自身は「今」どう感じているか
ということに、かなり意識を向けるようになってきたのではないでしょうか。
「今」自分が惹かれるものを選択していくと、精神的にも肉体的にもストレスが生じにくくなります。
「今」望んだことを行動に移していることになるので、むしろどんどん楽しく嬉しくなっていきます。
一つ前の項目で少し書きましたが、
わたしは以前、ストレスを発散する手段として激辛食品を食べていた時期がありました。
そのときは
「おいしい激辛を味わいたい」というより
「フラストレーションや怒りを発散させる手段」として食べていました。
たしかに当時を思い出すと、
おいしく味わって食べていたというよりいやなことを思い浮かべながら発散するように食べていたわけですから、今となってはなんて不健康な食べ方をしていたんだ!?とぎょっとするナガでした笑



なんじゃそりゃ〜
過去の自分にギョッとするんか〜い!



うけるよねぇ〜
では、今のわたしはどうでしょうか。
今のわたし(2025年8月現在)も、激辛が好きです。
しかし、当時と決定的に違うのは、たのしんで、よろこびとして味わっているというところです。
今のわたしは、激辛をストレス発散のために食べることはなくなりました。
「今」惹かれる食べ物を選択していると、激辛を選択する頻度がぐっと減りました。
では、なぜ今も激辛が好きかというと
おいしくて汗をかけて、いきいきとエネルギーがわいてくるからです。
ストレスは、自己統合するとどんどん手放されていきます。
自己統合とは…
ナガの解釈でいうと
自分らしくしていくということです。
つまり、
自分固有の純粋な周波数に戻していくこと、
ノイズを取って自分自身のエネルギーをクリアにしていくということです。
それをしていくことで、
わたしの座右の銘「自分自身の音を奏でる」ことができるようになっていきます。
自己統合をしていくと自分が満たされてゆくので、ストレス発散をする必要もなくなってくるのです。



ホォ〜そいつはいいねェ〜!
では、自己統合はどうやってするのかというと、
やり方は色々あるのですが、実はこの記事で書いた内容はすべて自己統合につながっています。



というか、
このサイト「Marotto(まろっと)」にある記事の
大多数が自己統合に関する内容になると思われます〜♡



「自分自身の音を奏でる」は
このサイトのコンセプトでもあるからの〜
その行為や物そのものが好きですか?
それともストレス発散の手段として選んでいますか?
自己統合をしていくと、ストレスの要因となるものがどんどん手放されていくのでストレス発散の手段として何かをするということがなくなります。
その行為や物そのものが好きで味わいたいから行うようになり、依存になることもありません。
まとめ
ポイントをまとめると、以下になります。
・他人や世間との比較をしない
→比較するのではなく、自分の感覚に意識を向けましょう
・罪悪感を手放す
→罪悪感を感じる必要はありません。感じるだけ損です!その分楽しんで、味わいましょう♡
・「とりあえず」で選択しない
→「今」惹かれるものは何か自分に問いかけて選択しましょう
・自分にレッテルを貼ることで、思考停止させていないか意識する
→自分の感覚に意識を向けてひとつひとつ選択するのが面倒だから、自分を「こうだ」と決めつけて思考停止することを選択していませんか?自分の「今」の感覚で惹かれるものを選択していきましょう。
・その行為や物を、ストレス発散の手段として選択していないか自分に問いかけてみる
→自己統合をしていくと、ストレスが根本的になくなっていきます。そうすると、あらゆることを「好きだから」「惹かれるから」選択することになります。その場合、エネルギーバランスが取れているので依存になることはありません。
要は、自分の感覚をたいせつにするということですね〜♡
日々、あらゆることについて「今」何に惹かれているかを自分に聞きながら選択していくと、どんどん感覚が磨かれていきます♡
人の数だけ、感覚のちがいがあります。
当然、人の数だけ惹かれるものや惹かれないもののちがいが生まれます。
他の人の考えや価値観と合わない部分があるのはあたりまえなのです。
ということは、他の人の意見や感想はそれほど氣にすることはないということです。
そこが腑に落ちると、とても楽になりますよ♡
自分の感覚を磨いて、どんどん楽しくなっていきましょう♡



ワッショイ!どどんこ!



じゅんこちゃんのひとりお祭りがはじまりそうだ…!



どんどんうたい、わっしょいどどんこおどることじゃ



ととちゃんもるんたったおどろ〜♪
かなり長くなりましたが、
読んでくださり、ありがとうございました♡